ガイウス・ユリウス・カエサル知ってる?クレオパトラの愛人で子供も作っちゃった人。

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ローマ皇帝ユリウス・カエサルは、紀元前44年に反乱を起こした元老院の集団に23回も刺傷されました。

有名な最期の言葉をいう時間などあったのでしょうか?

歴史上の重要人物カエサルについて、有名なクレオパトラとの関係や子供について紹介していきます!

ガイウス・ユリウス・カエサルは帝王切開で生まれたわけではない

ガイウス・ユリウス・カエサルは紀元前100年7月13日に生まれましたが、一般的に考えられているように帝王切開で生まれたわけではなさそうです。

当時、帝王切開の処置は存在していたものの、母親が死亡したため、妊婦がすでに死亡しているか、死にかけていて胎児を救うためにのみ行われるものでした。カエサルの母親アウレリアは紀元前54年、息子を出産してから50年近くも生きています。

いくつかの情報源によると、カエサルの名前の語源は祖先が母親の子宮から「切られた」という意味をする「カエスス」だとされています。

その他の語源としては、カエサル一族には長くたなびく髪、「カエサリー」の人がいたのではないかという説もあります。

ガイウス・ユリウス・カエサルは海賊に誘拐された。

紀元前75年、カエサルが20代半ばの頃、ローマからエーゲ海のロード島に向けて出発しています。

当時のロード島は知識の中心地として知られており、カエサルは古代ローマで最も有名な雄弁家となったキケロなどを生徒に持つ、修辞学者アポロニウスの下で学ぼうと考えていました。

しかし、ロード島への旅路の途中、カエサルの船は小アジアの南西の海岸部で海賊に乗っ取られてしまいます。

解放の条件として提示された額があまりにも低かったため、カエサルは身代金を引き上げろと要求したそうです。

身代金はその後引き上げられ、カエサルは解放されました。しばらくしてからカエサルは身柄を拘束した海賊に復讐するために船と船員を雇い、海賊を見つけ出し、捕まえて処刑させたといいます。

ガイウス・ユリウス・カエサルには多くの愛人などがいた

カエサルが1人目の妻、コーネリアと結婚したのは紀元前84年で、彼はまだ未成年でした。数年のうちに、ルシウス・コーネリアス・スラ将軍がローマ共和国の独裁者となり、国の敵と判断された者を処刑せよという命令を発しました。

カエサルの義理の父、ルシウス・コーネリアス・シナ(紀元前84年没)はスラの政敵でした。

その結果、スラはカエサルにコーネリアと離婚するように命令しましたが、カエサルは拒否します。

命令に反することは命に関わると分かっていたカエサルはローマを離れ、逃亡者となります。逃亡中にカエサルはマラリアにかかり、その後スラの手下に捕まり、巨大な賄賂を要求され、自由の身になるためにほぼ全財産を投げ打つことになります。

最終的にカエサルの友人で影響力を持つ人たちや親族がスラを説得し、カエサルがローマに戻れるようにしてくれ、コーネリアと再会します。紀元前76年には2人はジュリア・カエサリスという名前の娘を授かります。

コーネリアは紀元前69年に亡くなり、紀元前67年にカエサルはスラの孫娘ポンペイアと結婚します。

紀元前62年にカエサルは国家の最高神官「最高神祇官」の役を賜り、ポンペイアはカエサルの邸宅で行われるローマ人女性が集まる毎年の祭り、ボナ・デア(「豊穣の女神」)に参加しました。

このイベントは女性限定なのですが、若い貴族が女性に扮して紛れ込みます。男性は夜のうちに発見され、スキャンダルとなります。

男性はポンペイアに想いを寄せている、または彼女に言い寄ろうとしていたと報告されています。ポンペイアがその事件に積極的に関わっていたかは不明ですが、カエサルは「妻は潔白だ」としながらも離婚することにしたのです。

カエサルが3人目の妻カルプルニアと結婚したのは紀元前59年で、カルプルニアはまだ未成年でした。彼女はカエサルが亡くなるまで添い遂げます。

カエサルは有名な遊び人で、エジプト女王クレオパトラVII、 紀元前44年にカエサルを殺害するのに加担したマルクス・ブルータスの母親であるセルヴィリアという女性を含む、複数の愛人がいました。

ガイウス・ユリウス・カエサルとクレオパトラの間に息子がいた

紀元前48年、カエサルはローマ将軍ポンペイを捉えるためにエジプトに赴きました。

彼はそこでクレオパトラに出会います。彼女は当時弟で共同統治者であったプトレマイオス13世(古代エジプトの慣習により、2人は形式上夫婦として統治)との内戦中でした。

姉弟の亡き父親の遺志を遂行するものと自らを称したカエサルは、2人に自分の前で諍いを納めるよう求めます。

クレオパトラがカエサルの滞在先に向かうのをプトレマイオスの軍に足止めされた時、彼女は洗濯袋の中に身を隠し、カエサルと初めて対面することになったという話もあります。

カエサルはクレオパトラの倍の年齢でしたが、恋に落ち、紀元前47年頃、息子を授かります。プトレマイオス・カエサルはカエサルの息子だと考えられています。エジプト人は彼をカエサリオン、小さなカエサルと呼びました。

紀元前44年のカエサルの暗殺のすぐ後、クレオパトラ の弟で共同統治者プトレマイオス14世 が殺害されます(その前の共同統治者プトレマイオス13世は紀元前47年頃亡くなっています) 確証はありませんが、カエサリオンを共同統治者にするためにクレオパトラ がプトレマイオス14世に毒を盛ったのではないかという疑惑があります。

実際、カエサリオンは同年に共同統治者としてプトレマイオス15世となっています。

紀元前31年にはクレオパトラ とその愛人マルクス・アントニウスはアクティウムの海戦でカエサルの甥の息子で後継者オクタビアヌスに敗戦します。

翌年、アントニウスとクレオパトラ は自殺を図り、カエサリオンが単独でファラオの地位に就きます。しかし、彼の統治は長くは続きませんでした。

母親の死後間も無く、カエサリオンはオクタビアヌスの命令によって殺害されてしまうのです。オクタビアヌスはその後ローマの初代皇帝となります。アウグストゥスの名を取り、紀元前27年から紀元14年まで統治します。

カエサルにはカエサリオン以外、息子として知られている人はいません。把握されている娘は紀元前54年に出産時に亡くなったジュリアだけだといわれています。

ガイウス・ユリウス・カエサルはうるう年を始めた人とされている

カエサルが権力を持つ前、ローマ人は1年が355日からなる月周期に基づいた暦を採用していました。この暦だと太陽暦と比較して、地球が太陽の周りを完全に周回するために必要な日数よりも10 ¼日短くなっていました。

ローマ帝国の政治家たちは四季に合うように陰陽暦に何日か追加することになっていたにも関わらず、必ずしも守られなかったために混乱の原因となり、暦が季節と一致しなくなり、さらに政治家が自らの任期を延長するための不正に使われるようになりました。

カエサルは天文学者ソシゲネスと相談した上でユリウス暦を紀元前45年より採用、1年は365日となったのです。この暦は太陽の周期と一致しているはずでした。

しかし、実際の太陽暦の長さは365 ¼ 日だったため、カエサルは4年ごとに1日多い年を設け、差を修正することにしたのです。

ユリウス暦は16世紀まで標準的に使われていましたが、その後、若干修正を加えたグレゴリオ暦が導入されました。

今日グレゴリオ暦は世界中で最も使用されている常用歴となっています。

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